8月6日の式典での日本の国家元首とも言える人の挨拶にモンモンとしてしまいましたので、記事にしてみました。
8月6日の中継
8月6日の中継で国の代表者があいさつで原稿の一部を読み飛ばすという顛末を引き起こしてしまいました。過去にも実はあったのかもしれませんが、今回は多くの人にあいさつを伝えるためにライブ放送をしていた放送局の映像上にあいさつがテロップされていたため、その間違いが引き立つ結果となってしまいました。
読み飛ばし以外にも、言い間違いもあり、8月6日と言う時、場所、場の雰囲気を考えると絶対に出てこないいい間違いもありました。
歴代の国の代表者や加害者の国家元首が訪れた際のあいさつでもそうしたことはなく、オリンピックの盛り上がりと新型コロナ感染者の爆増に視線が注がれていても、大きな波紋を呼んでいます。
読み違いを後で謝罪するものの、後で読み上げ原稿ののり付けが原因を公表
式典後に同市内のホテルで会見をした国の代表者は読み飛ばしについて、謝罪をしており、この時点ではいくら準備不足やスキル不足はあっても間違いはどんなケースでもあり得るので素直に間違いとして、釈明したことは情けないとは言え、それ以上、かきまわしても意味がないと感じていました。
いみじくも、1年前にあいさつした人は体調が悪い中、演説したことと比較してもどうかと思ってしまいましたが・・・
しかし、同日の夜になって、政府関係者がマスコミに
「原稿を貼り合わせる際に使ったのりが予定外の場所に付着し、めくれない状態になっていたためだと明らかにした。「完全に事務方のミスだ」と釈明した。」
と一気に報道され、その原因が代表者本人ではなく、事務方に原因があることを明らかにしています。
代表者を守るために、事務方が悪いというファクトを提示していますが、そのファクトがあいさつを耳にしていた人にとって、納得・納得、総理ご苦労様でしたと合点するものかと言うのは不明であります。
大本営を守るためのハラキリ的なアクションですが、事実であればそれを事実として公表するリスクはどうなのかと考えてしまいしまた。
事務方が悪いとしても、こんな大事な式典の原稿ののり付けは慎重となるわけであり、事務方自体が読む人がスムースに読むようなのり付けをしていないこと自体がそもそも、気が緩むようなガバナンスだったとも言えます。
この問題の本質
この問題の本質を考えてみると下記の三点が浮き上がります。
付箋を貼る程の人がのり付けの不具合に気づかないのか
のり付けの不具合を公表することで責任回避に向かうことができるのか
のり付けをする際に読み手のことを考えていたのか
そもそも、スピーチの読み間違いやとちりが多い
付箋を貼る程の人がのり付けの不具合に気づかないのか
ますば、読み手本人の問題でありますが、そもそも国会での与野党から質疑に対して、付箋を貼る程の人がのり付けの不具合を事前に察知できないというのが不思議であります。
事前に練習版原稿で山ほど練習して、式典という事で書き込んだ原稿を持ち歩くのは憚られるため、キレイ版を渡されていざ本番で問題が生じたのかもしれません。
しかし、練習していれば、そのままつらつらと言葉が出てくるわけであり、一言一句あっていなくても、外してはいけないことは伝えるのが普通であります。
時間がなかったのか、時間をかけなくても読めばいいと思っていたのかわかりませんが、国家元首に近い人は根回しや情報収集だけでなく、思いを伝えるというのが大事と言うのが良く分かった事例であります。
のり付けの不具合を公表することで責任回避に向かうことができるのか
次に時間差でのり付けの不具合が原因として、マスコミに明らかにしていますが、このことが事実であったとして、それが国の代表者に非がないと言えることなのかは疑問であります。
現場の事務方に責任を押し付けているとも言えますし、仮にミスが事実であった場合に、それが代表者の手に届くまでミスが気付かなかったこと、最終的な責任者の代表者もそれが気付かなかったというのは、統治体制に問題があるという事にもつながりかねないことであり、こんなことを露呈する事態が恥ずかしささえあります。これが真実そのままであれば安全保障にも影響があるかもしれません。
また、言い間違えは言い間違えと、いつかの代表者みたく「一切の責任は私にあります(中略)」と明鏡止水の心境になるくらいでないと務まらない気もします。
一言で言うと事務方のせいにして、カッコ悪いとなりそうです。まだ、明鏡止水の人の方が大物感があります。
のり付けをする際に読み手のことを考えていたのか
のり付けをするのは原稿が飛び散らない、順番通りに読んで欲しいためにする行為であります。読んでもらう人がスムースに読むように適切にのり付けするものであり、それが不適切と言うのはやっつけ仕事と思っているか、敢えて失敗することを期待しているかとしか考えられず、いずれにしても、読み手の先に聞き手がいることが軽んじられているとしか思えません。
仮に政権失脚をねらった工作としても、聞き手に動揺を与えることは無視していると言え、あまりいい筋ではないため、実のない話となりそうです。
そもそも、読み違いが多い
そして、そもそも読み間違いやとちりが多いのも気になるところです。原爆を原発と読んだりしており、仕事が多忙を極めていて、原発関連の事案に追い込まれているからなのか不明ですが、あってはならない間違いと言えます。
人間、心底感極まって、思いつめた時に全く無縁の言葉と言い間違えはないですし、間違えてもそこをカバーするようにものすごい強調するものであり、やはり、心底と言うのが感じられなかったのが今回の挨拶であります。
ここでも事前の準備不足が感じられるだけでなく、そもそもの意識が低く感じられます。変な冗談から機転の良さを感じるキャラクターでもないためにいよいよやばさを感じます。
最後に
国民の代表として、適切な場所できちんと表現できないのは恥であり、歴代からもそれは受け継がれているにもかかわらず、それができないのは責に処すべきことかなと思いますが、特性もあり、ダイバーシティからは寛容もあると言えます。
しかし、その姿勢がどうであったかは政治家としての資質が問われるところであります。
某政治ジャーナリスト(政治アナリストではない)が同政権与党の選挙のポテンシャルについて先月、言及していました。その内容は革新などの既存野党勢力に対しては強いものの、保守の新たな勢力が出てくると選挙は弱いということです。
それを考えると、緑色の勢力が一見、ウイルスのスパイクのように噛みやすい政権与党の一部派閥と組むように思わせて、実は一枚岩を三枚ぐらいに割ってしまうような動きをすると日本憲政史上まれに見る保守分裂の可能性もあり、プレートが動くぐらいの変動があるかもしれません。緑自身は歴史的に残るPrime Ministerとして完結すればそれでいのかもしれません。
それぐらい今の小選挙区制は機能していなく、蠕動が必要なのかもしれません。 政権の動きは、交通や観光など監督行政の影響力が大きく、政局については注視が必要です。